毎月、浅草演芸ホールのプログラムに寄席や落語に関する言葉の説明を
紹介しています。
記載号は、浅草演芸ホールプログラムに記載した号数です。
現在、1988年6月~2004年12月分まで掲載しています。
その以降も、更新を続けています。
落語の言葉 説  明 記載号
あいそ 愛想  「愛想のよいをほれたと感違い」なんて川柳がありますが、かわいらしい様子、かわいらしさが大もとの意味ですが、あいそをふりまく、あいそをよくするなどの使い方から、親愛の情・もてなし、の意味が出てきました。もてなしということなら、近頃よく飲食店で耳にする「ねえさん、おあいそ・・・」と勘定書きを催促するのは、ちょっとおかしいのかも知れません。 93・02上
あおにさい 青二才  年若くして人生経験のとぼしい男をののしっている言葉です。青春・青年など、未熟という意味で、江戸時代から明治にかけては、若い男を青男、出家したばかりでその道にうとい坊さんを青道心などと呼びました。果物などほとんど未熟な頃は青く、りんごでも柿でも蜜柑など色がついて熟します。二才というのは、ボラなどの魚の二年子の呼び名からきたもので、二才子・三才子とさらに成長するのです。 06・09下

10/23更新
あかもん 赤門 戦前は、本郷にある東京帝国大学の代名詞として親しまれていました。これは、十一代将軍徳川家斉が、24番目の娘溶(よう)姫を、加賀百万石前田家の当主に嫁がせた時、正面の黒門とは別に、住居として御守殿を建て、その出入りのために丹塗りの門を設けさせたのが始まりなのです。本郷の前田家二つ門とて、黒と赤。建築学的には「医薬門」とも呼び、医師の屋敷の門が、丹塗りであったからで、救急の信号として目につくようにとの伝統を引いていたわけです。 原稿のため不明
2/20更新
あがり あがり  木戸の収入のこと。お客様の入場料の総まとめ。このうち楽屋の方へくるのを「ワリ」という。 88・06下
あげや 揚屋  遊女の最高位と言われる太夫と遊ぶ場合には、揚屋という制度がありました。客は最初この揚屋に上がって、好きな太夫を指名します。揚屋では一定の書式を持たせた使いを太夫のいる遊女屋に差し向けるのです。遊女屋がこの太夫を客のいる揚屋に向かわせるのが、映画や芝居に出てくる有名な「道中」で、豪華な衣装・黒塗りの高下駄・お付の禿の小娘二人が着飾ってこれに従います。しかし、初会と言って挨拶しただけで帰ってしまうのです。 02・06下
あこぎ 阿漕  落語の地噺「西行」の中で、「違うことを阿漕が浦に曳く網の度重ならば人も知りなむ」という歌に見られるように「度重なる」というコトバの枕言葉としてもちいられたのです。三重県の阿漕浦は伊勢大神宮の禁猟区であったことから密漁も度重なるとバレるという意味を、逢う瀬の忍ぶ恋にかけました。染殿の内侍という女性に思いをかけていた佐藤兵衛という武士が、その夜明け「又の逢瀬は?」と聞き「阿漕であろう」と袖を払われたという故事なのです。 03・04上
あさぎうら 浅黄裏  「首提灯」や「万病円」にでてくる田舎侍のことを言う。着物の裏地に多く浅黄木綿を用いたからである。 91・06上
あさくさのり 浅草海苔  浅草観音前で売っていた海苔を称して、江戸時代には江戸湾入り込み入江になっていたので、漁民が甘海苔を採って商ったのが最初です。江戸がだんだん大都会になるにつれて海苔の需要が高まり、その商品化ががすすみました。葛西(江東・江戸川)方面と、品川(大田・大森)方面から甘海苔を取り寄せ乾海苔として販売しましたが、それぞれの産地で製品化するようになって、その土地の名がつけられたのです。現在では韓国産がほとんどの「浅草海苔」です。 96・08下
あさくさばし 浅草橋  中央区東日本橋と、台東区浅草橋を渡している神田川に架かっている橋で石橋としては、江戸最古の橋です。明暦の大火のとき消失はのがれましたが、大惨事が起きました。小伝馬町牢獄が大火の非常措置として囚人を仮釈放したのですが、これを見た浅草橋見附の役人が、囚人が集団脱走したものと信じ見附の門を閉鎖してしまったのです。このため猛火に追われ市中から浅草方面へ逃げようとする群衆が、おびただしく焼死した故事があります。 02・03中
あさり 浅利  朝食べるとメリットがあるというわけでなく、江戸の海岸でならどこでもよく採れたので、しじみと一緒に早朝「あっさり、死んじめェー」などと、子供たちにも覚えられるよう天秤棒で売り歩いていました。あさり飯は「深川飯」ともいい、丼の米飯にあさりの味噌汁をかけ、葱をふりかけた簡便な食事で、とくに職人の多い下町では、その簡便さゆえによく売れ、吉野家の牛丼のように良く食べられたのです。あさりのむき身はすり鉢一ぱい五文でした。 96・09上
あしをあらう 足を洗う  「足を洗って堅気になる」などと、泥棒や女郎がやくざな稼業から抜け出て、まじめな生活に戻ることに使われますが、これは昔のインドの僧が、一日中ハダシで托鉢(たくはつ)をして歩き、寺に帰ると、汚れた足を洗い清め、それから信者を集めて法話をしたという、仏教から出たものです。悪い生活をやめて、清い生活に入ることを「足を洗う」と言うようになりました。現在は、今の仕事をやめてほかの仕事にうつるという軽い意味でも。 01・12上
あずまばし 吾妻橋  台東区と墨田区にかけられた隅田川二番目に古い橋で、別名浅草大橋とも言われて親しまれました。江戸時代の中頃、花川戸の町人伊右エ門と下谷竜泉寺の源八から冥加金五十両と、橋銭二文をとることで架橋されたのです。五十年後に橋銭は禁止になりましたが、江戸時代には花川戸近くの猿若に歌舞伎三座があり、堤は花見時の両側の公園の、この吾妻橋をはさんでの賑わいは葛飾北斎の錦絵にもよく画かれているところです。 00・09上
あたみおんせん 熱海温泉  江戸っ子にとって風呂は一日の疲れを流す場として、又社交場でもありました。しかし、温泉となると全く無縁のもので、箱根や熱海に行くだけで三日も四日もかかり、旅費と宿泊で、その日暮らしの江戸っ子には実際には夢でした。かつて将軍家光は、病気の時、熱海からたるで日本橋まで船で運び、これを温めて「薬湯」としたとか。実際には温泉の湯を使っていないのに「熱海温泉」と標して客寄せをいたのもいたそうです。 99・03上
あとのまつり 後の祭り 時期を逸して効果のない、無駄骨折りをいう諺として使われているようですが、五月五日の六日の菖蒲・九月九日の十日の菊・喧嘩が終わったあとの棒切れなどなど、十二月二十六日のクリスマスケーキが値段を下げるのと同じようなものです。死後の葬祭が以下に盛大であっても、死者当人にとっては現実に役立たぬムダなものだからではないでしょうか。そのはかなさが「六菖十菊」と同じく、時機を失くした効のなさを諺としたものです。 原稿のため不明
2/20更新
あみがさちゃや 編笠茶屋  江戸の町には茶屋と名のつく店が多くありました。今日の喫茶店を想像するかも知れませんが、その実態は多種多様の商売をしていたようです。全くお茶だけを供してサービスする店は、水茶屋とか一文茶屋と呼ばれ、料理茶屋は割烹店、芝居茶屋は芝居見物、相撲茶屋も同じで酒料理なども提供しました。出合茶屋はラブホテル。引手茶屋は遊客はここで一ふくして妓楼へ。さて、編笠茶屋とは、身分のある人、僧侶などがここで扮装を変え、編笠で顔を隠したのです。 97・09中
ありんす ありんす(特殊用語)どの業界にも符丁といったものがありますが、吉原の廓ことばのメインは「ありんす」でした。地方出身の女性が遊女には多いので。いろ消しのお国なまりを隠すために使われた独特のことばで、又、遊女屋ごとに知ったか玉屋、ざんす丁字屋、おつす松葉屋など、特別なひびきをもったことばのやりとりでも楽しませて、お客を煙に巻いたのはこの世界でのテクニックだったようです。(遣手婆、ありんす国の、通訳か」 98・09上
いかものぐい 烏賊もの喰い「テレスコ」という落語がありますが、イカものでないスルメの味ヨ、アタリメじゃねえか。イカを食べる人をいうのではなく、普通、人の食べないものを食べる人、つまり下手ものを好んで食べる人を「いかものくい」と称します。ヨーロッパでは昔からイカやタコは悪魔の魚と呼ばれ、うとまれていたようで、このイカなどを好んで食べるというのはウソで、このいかは「いかがですか」のいかで、食べるのはいかがなものかと、思案したくなるものを食べる人のことなのです。ブスを連れて歩くと「いかものぐい」 97・06上
いそうろう 居候  「居候三杯目はそっと出し」落語「湯屋番」や「船徳」に登場する若旦那は、居候としては品の良い由緒正しい人物ですが・・・「居候亭主の留守に仕候」?なおどという川柳もあります。文字に書くと食客ということになりますが、要するに他人の家に転がりこんでムダ飯を食っている厄介者のことで、その家の主婦とはゴタゴタするわけで、落語ではその辺を面白おかしく表現しているのです。 93・06上
いちふじ 一富士・二鷹・三茄子(なすび)正月の初夢にめでたいものとされていますが、一説には、一に富士・二に鷹の羽のぶっ違い、三に名をなす伊賀上野・・・と、曽我兄弟・赤穂義士・荒木又右衛門の三大仇討という説もありますが、正月に仇討とは縁起の悪いことでさけたいと思います。一に「不死(富士の山)」不老不死、二に鷹・高・貴天高く位人臣を極めて、三に郁々逸の「親の意見と茄子の花は千に一つの無駄がない」とて、富裕蓄財、子孫繁栄との意ではなかろうか。 02・12上
いちまいかんばん 一枚看板  往年の柳家金語楼や柳家三亀松や三笑亭歌笑(先代)各師のような一人で客を呼べるような人気と芸のある寄席出演者のこと。現在でも沢山いらしゃるが、差し障りがあるので名前は挙げません。「大看板」などともいう。大真打のこと。 89・10下
いなかもの 田舎者  江戸の町人が、江戸近辺に住む人を「田舎者」と呼んだそうです。品川を経て江戸へくる者は田舎者。新宿などを通ってくる者や、上総・下総あたりから船でやってくる人をふくめて近所田舎者、近辺以外の者は遠国者と呼びました。落語の「文七元結」で、吉原京町の角海老の内儀が、左官の長兵衛に「そんなことはいいよ、江戸行きのときに取りにやるから」と、つまり浅草っ子でさえ、自分たちを田舎者だと認めていたことになるようです。 04・11上

10/23更新
いなせ 鯔背  三社祭の足袋袋に、祭伴天、きりりと豆しぼりの鉢巻をしめた若睦の神輿かつぎのスタイル。勇み肌で粋なさまを言った江戸なまりの言葉です。昔、魚河岸の連中に流行した髪型で、そのかたちが鯔の背のい似ていたので、この名がついたというのが語源かと思われます。すべて侠気にみちて、職人気の横溢している感じて、いなせ下駄と言って職人や侠客たちに愛用された下駄があり、幅は二寸二分(6.5センチ)鼻緒の長いものだったとか。 92・06上
いれずみ 刺青  江戸では彫り物と呼びましたが、これは刑罰の入れ墨と混同するのを嫌ったからです。京阪ではイレボクロとも言ったとか。江戸では鳶の者など彫り物のないほうがマレでした。落語の「火事息子」にこの風俗はよく画かれています。刺青はアウトロー的存在の伊達者の流行で、駕籠かき・馬方・船頭・八九三にはこれを得意にする者が多かったそうです。心中立てに「誰々命」などと彫っても皺になってタルんでは? 93・11上
いんろう 印籠  「この紋どころが目に入らんか、先の副将軍水戸光圀公であらせられる・・・」でお馴染の印籠は、印鑑を入れて歩いたことからつけられた名称でしたが、戦国時代になってから命を守る薬の方が大事になってきたので、本当は薬籠という訳ですが、薬箱というものは別にあったので、手持ちで自由に使える携帯用をそのままの名で使われたようです。ポケットのなかった和装時代で腰にぶら下げて、その上模様を凝らした芸術品にまで進化したのです。 原稿のため不明
うおがし 魚河岸  落語「芝浜」にでてくるのは日本橋東詰の魚河岸?遠州・豆州・相州(静岡・神奈川)房州・上総・下総(千葉)からやってくる船と船との間には一筋の髪を入れる隙間しかないほど賑わったとか。毎日、何万尾の魚が江戸っ子の腹の中に葬られたわけです。この魚河岸の起源は、江戸開府間もない頃に、大阪の漁師が江戸湾での漁業権を得る代わりに将軍や諸大名の御前御肴を調達しました。その余りを一般町人に売りに出す許可を得たのが、魚河岸のはじまりだそうです。 97・02上
うざったい (うざうざ)  地方に行くと「こそばゆい」などというそうですが、江戸言葉としては、小さいものの群れの集まっているさまのことで、「うざうざ」が「うじゃうじゃ」になりました。「蜂の子がうじょうじょいる」とて、「や」が「よ」に変わることもあります。江戸っ子は、ブツブツぐちるときに「うざうざ」を使いました。暑い時に、子供の頃、何やかやと母親にまとわりついていくと「うざったいねエ!」とよく叱られました。 00・12上
うまずめ 石女  昔、中国でセキジョと言ったことによる借用です。石婦とも書きます。子供を生めない女性のことで、現代では不妊症というより、男性に欠陥のあることが多いと医学では判断しています。江戸時代には「嫁して三年、子なくば去る」と言って離縁の理由の一つで、不生女と書くこともあったようです。少子化の時代となった今日、大手を振って歩く女性の多くなったことは、石をぶつけられるのではないでしょうか。 06・05下

10/23更新
うらながや 裏長屋  九尺二間のせまい長屋のことで、一軒の広さが間口が九尺(2.7m)奥行きは(3.6m)つまり三坪で、六畳一間のワンルームです。部屋は畳敷きのものもありましたが、板の間にむしろを敷いたものが多く、その部屋に火鉢、行灯、夜具、行季など、残りは三畳ほどしかなかったのです。家賃は月八百文位で、今に換算すると二万円位で、大工左官の日当が五百文稼げたので、二日分で支払うことが出来ました。 04・07下
えと 干支(えと)子・丑・寅・・・十二支だけでなく、辰・巳・午とくれば十二支の支だけで、頭に干(かん)がつかないとえとになりません。これは十干は中国の陰陽五行説により、森羅万象を「木・火・土・金・水」の五つの要素に分け、更にそれを「陰・陽」の二つの要素に分け、つまり「木の陽」「木の陰」というように十通りのパターンが出来ます。これに順に「甲・乙・丙・丁・・・」と文字を当て、甲子(きのえね)は木の兄、乙(きのと)は木の弟というわけで、えとはつまり「兄弟」のことなのです。 00・02上
えどさんざ 江戸三座  中村座・市村座・森田座を江戸四百年の昔はこう呼びました。中村勘九郎(現・勘三郎)が「浅草まつり」の時上演した中村座はその名残で、昔、大店の旦那衆や、御殿女中は芝居茶屋でくつろいで、食事をとってから桟敷席につき芝居をみたのすが、庶民は「かべす」とて、菓子・弁当・鮨の三品を幕間に飲食し楽しみました。それも土間の桝席で、それの下等は「切落し」とか「大向う」とか、最前列の平土間又は、二階正面の向座敷のさらに奥にある立見席で役者に大声をかけていたのです。 04・02下
えどまえ 江戸前  よく関西方面へ行くと、東京のモノを江戸前と言っているようですが、これは江戸の前というのが本当の意味なのです。品川から深川までの海の一番杭のなかを江戸前と称して、ここでとれる鮮魚だけを扱うのをホコリにした旨い物屋のおやじの顔が目に浮かびます。アジ・タイ・ヒラメ・スズキ・シャコやアナゴなど。奥深い江戸湾のその又奥にあり、自然の養殖地として、そこへ河川が運ぶ栄養分が、この上ない魚の飼料となったのでしょう。 92・11上
えどふだ 絵馬札  神仏への祈願の一つの手段で、「願い」を、文字や言葉でなく、図柄によって神仏に知ってもらう方法です。昔は、生きた馬を神前に供えていたのですが、貧しい者には無理とて、板絵になったことから、この名もつけられたようです。馬は神馬というように、神霊を運ぶ乗物とされており、願いを馬にたくしてということかも知れません。蛇や狐・鯰やねずみなど神仏それぞれ使わしめの姿を描いたり、近頃では様々の近代画のものまで登場しています。
92・09中
えんちょうき 円朝忌  毎年8月11日。谷中の全生庵に、噺家が全員集合して法要を行う。3月8日、今戸潮江院に寄席開祖の三笑亭可楽忌も毎年いとなまれることになった。一般の人も参加出来る。お弁当が出たり、イベントもある。 89・07中
おあし 御足  おじいさん&おばあさんはとくに、お金のことをこう呼ぶ人が多いようです。漢字に書くと、そう言えばお金は逃げ足が速い・・・人の足のように、ひとところにとどまらず、あっちこっちにへ言ったり来たりするようです。この足を「おあし」というようにおの字をつけたのは、神様や貴い人に対する貨幣という意味で、かってはていねい語で女言葉だったようです。しかし、昔も今も大きい「おあし」は腰が重くて、貧乏人の間までは歩いてきません。 00・04下
おおおかさばき 大岡裁き  落語の「大工調べ」や、講談の世界にも、頓智頓才の名奉行として人気がありますが、江戸の町奉行の中でもっとも有名な町奉行です。将軍将軍徳川吉宗の信任が厚く四十一才でこの職につくのは異例の出世であります。火事の多い江戸に町火消し作り「いろは四十八組」を誕生させた功績は大きく、また貧しい人たちの施設として「小石川養生所」を創設したり、物価問題・流通機構の改革、落語や講談の主人公としても活躍したやはり命奉行です。 02・04下
おおおく 大奥  城中で女性たちの起居するところを奥と言います。江戸城ではこれを特に大奥と言い、大奥へは将軍さま以外の男性は入れません。大奥には俗に「美女3千人」と言われたほどの女性が生活をしていました。大奥の主人は将軍の妻で御台所(みだいどころ)というのが呼び名で、廚(おてあらい)も、将軍さまと同じで供の者を連れて入ります。尻ぬぐいも供の女中にさせます。月に七日の始末などもさせたようです。いやはや、恐れ入りました。 04・08上
おおぎり 大喜利  寄席の最後にやる大一座ものの演芸のこと。「笑点」のようなお題噺・娘けん・謎かけ・寸劇など。 89・04上
おおだんな 大旦那  最近は寄席も税金の関係で、社長と言うようになったが、寄席の座主のことをこう呼称した。二代目は若旦那だったが、やはり会社経営となると、専務ということになる。番頭はマネージャーで、呼び込みやもぎりや売店は? 91・11上
おおはし 千住大橋  江戸は全国城下町の中でももっとも橋の数が多いのです。大阪は八百八橋などと言われますが、江戸も八百八町、とくに隅田川には現在十三橋ありますが、江戸時代に五橋もあったのです。その中で最古の橋が千住大橋で、現在の荒川と足立区の境、国道4号線の橋で、現橋は昭和2年建設。徳川家康が江戸を城下町とし隅田川にはじめてかけた橋で、この橋の不思議なことは、他の橋は何度か流失したりしているのに明治になるまで保ち、水腐れに強い犬槇(いぬまき)の巨材を橋杭に、伊達政宗が架けたとされています。 00・08下
おかっぴき 岡っ引  銭形平次のように十手をちらつかせ捜査にあたり、犯人を追いつめてこれを捕まえるというのはテレビの時代劇の娯楽性からの登場人物で、「岡引」がもとの言葉で、役人の傍らにいて手引きをするという意味で町奉行に属する同心の侍に使われている小者の呼称です。奉行所が公認しているわけではありませんから、同心から小遣い程度の金をもらうだけで、生活は苦しく、アベコベに犯人をゆすったり、たかったり、二足の草鞋(わらじ)をはいたのです。 04・03上
おけら 螻蛄 持ちが金を使い果して無一文になったことを言います。このオケラは、昆虫のケラから出た呼び名なのです。この虫の前肢は太くて短くて、内側がノコギリの歯のようで、土を掘るのに便利のような形になっていて、その短い二本の足の突き出した形が、まるで銭を使い果してお手をあげになった、万歳!という形にピッタリ。しかも後の足は長いが飛ぶだけの力もなく、動作は鈍くて、いつも土の中にもぐっているのは、スッカラカンになった人間さまが、蒲団をかぶって部屋にこもっているといったところ。 原稿のため不明
2/20更新
おしゃか お釈迦  陶器・磁器を作るときに焼き上げる窯(かま)の温度は八百度から千度と大体決まっているのです。うっかり焚(た)き過ぎて失敗することがあると、取り出した不良品を見て「お釈迦になった」と言いました。これは「火が強かった」と言う言葉がなまったことから始まったのです。ヒガツヨカッタのヒを、江戸なまりでシと発音し、シガツヨカッタを、4月8日の花祭り、お釈迦さまの誕生日にこじつけました。 03・03中
おちゃをひく お茶をひく  売れ残ってしまうことを○○ちゃんだけがお茶をひく、と言うのは、昔の遊郭の風習から来ているのです。お客に出す抹茶を作るために、お茶の葉を石臼で挽くのは、客のついていないヒマな遊女の役目でした。そこから、客がつかずヒマなこと自体を「お茶をひく」というようになり、芸者など花柳界でも使われるようになって、「キャバレー・ピンクサロン」などでも指名がないと、風俗店では現代でも生きている言葉なのです。 96・10下
おちょうもく お鳥目  お金のことを呼ぶのですが、これは中国から貨幣と共に渡ってきた言葉で、「鵝眼」(ががん)とて、楕円形で穴のあいていたことから、ちょうど鳥の目を真似たようだったからです。日本のお金も、昔は中国のものを模して造ったため俗称も「お鳥目」となったのです。最近のコインはみな円形をしているので、親指と人差し指を丸めて、お金を示すサインになりました。 99・07上
おとぎぼうず お伽坊主  将軍さまが大奥へ行って泊るという時は、前日か、その日の午前中に大奥へ知らせます。これは御台所の寝室とは二百メートルほどは離れていて、大奥「御休息の間」に入るときは三人の女がついて来ます。お名指しの中臈のほか、お添寝の中臈、それに頭を丸めた年かさのお伽坊主という人です。これは御同衾の間、下段の間に警護をしているという有様で、添寝の中臈が睦言に誰々を取立ててほしいの、誰をやめさせてのということを将軍に申し上げない用心から始まりました。 04・09上
おばけ お化け&幽霊(ゆうれい)  美人があの世からやってくると幽霊で、ブスはお化け・・・これは落語家の無責任な区別ですが、出る場所の定まっているのがお化けで、幽霊はどこにでも出るのです。それと出る相手が、お化けは相手を選びませんが、幽霊は生前、縁の深かった相手のところだけに出ます。出る時刻も、お化けは夕暮れに出ることが多く、幽霊は草木は眠る牛満時か深夜が多いので、どっちが怖いかしら?南無阿弥陀仏。 99・09上
これで、あなたも落語通!

笑三の落語辞典

あ行

落語の言葉 説  明 記載号
かいこういちばん 開口一番  よく落語会のプログラムに印刷されていて、下に前座さんの名前が書かれていますが、いちばん大きく開いた口ではなく、口を開くやいなや、いきなり切り出すことで、演芸評論家のある先生がつけたのです。何も大きな口でなくとも、何が飛び出すか、まっ先に出てくる声、それが問題なので、若手の噺家の未知数に期待する、強調したポイントの表現ではなかろうかと思います。大真打ももともとは、前座だったのです。
94・04下
かいせきりょうり 懐石料理  「懐石」というのは、禅宗の僧が修行中、空腹をまぎらわすために、温めた石(温石)おんじゃく」を懐に入れたことから来た言葉です。最初は茶会の席で茶の前に出す軽い食事のことだったのですが、つまり温石を懐に入れる程度の軽い食事を「懐石料理」と呼んだわけです。一汁三菜に八寸(酒の肴)というあくまで簡素な料理のことです。会席料理と間違えることがありますが、これは宴会に出される上等な料理の名称です。   99・07・中
かげま 陰間  ホモ=セクシャルのことで、その歴史は人類始まって以来、古いらしく、江戸時代には弘法大師と言い伝えていました。肉食妻帯の禁を破る僧は、小咄や川柳に、又、洋(神父)の東西を問わず出てきますが、つまり男色ならば・・・禁じられていなかったから、鎌倉時代の宗教改革以後、とくに名僧として親しまれていた弘法さまが、その創始者に選ばれてしまったらしいのです。武士の時代ではお小姓「森蘭丸」など、アメリカでは軍隊で野郎世界のゆえに。 93・10下
かごや 駕籠屋  落語の「くもかご」や「蔵前駕籠」に出てくるのは辻駕籠で、「乗り物」と称して、公卿(くげ)殿上人の使用したものが、支配者の足から庶民の足へ、これが江戸版タクシーの始まりです。旅の足として、馬に代って街道の宿場などで活躍したのが宿駕籠で、江戸時代に入ってから、品川、千住、板橋などから市中への乗入れは禁じられました。吉原通いの客目当ての辻駕籠が出始めたのは、武士は馬、町人は舟で通ったのですが、人に顔を見られずに済むというので利用者がふえました。 97・10上
かしほんや 貸本屋  洒落本や黄表紙のレンタルで、庶民文化の広まりに大いに貢献したそうです。今日で言うとビデオのレンタル屋のようなもので、テレビも映画もない時代の、大した学問も教養もない頃の絵草紙などは大いに繁昌をしました。忠臣義士・孝子・節婦の伝記のようなものは借り手がなく、「笑い絵」や「洒落本」「艶本」などが、舟板塀の妾宅や花柳界、大店の奥向きなど、当時の有閑マダムを上得意にしてちょっとオツな商売だったようです。貸本も繁昌し店持ちになり、貸本運びをやめると、読み手も大きくかわりました。 97・11上
かたみ 片身  亡くなった人や、別離を親しい人に記念品としてその人の所持品を分けることをカタミワケと言います。これは中国の古い習慣であったことが、文献に数多く出て参りますが、平常身につけていた衣服や装飾品などを親しい人にその半分を与えることなのです。文字通り「片身分け」イコール半分っこというわけ。本当はこれは「割り符」のような効果をねらった所業で、互に再会を誓っての分契ですから生やさしい意味のものではなかったようです。 02・02下
かっぱ 合羽  雨の日に着る外套(とう)の1種で、渡世人姿に合羽はつきものです。やくざの着ていた道中合羽は袖のない丸合羽のこと。三度笠・手甲脚絆・長脇差(どす)は、渡世人の正装で、映画や芝居に出てくると一目でそれとすぐに解るスタイルです。合羽はもともとポルトガル語の音訳で、戦国時代に来日したポルトガル人が、衣服の上にスッポリかぶるマントを着ていたのを真似たものが合羽なのです。三度笠は、毎月三度、江戸・大阪を往復した飛脚が被っていたのでこう呼びました。 02・09中
かなぶつ 金仏  よく落語の中で、人間が真面目で結構だけれども、堅すぎて融通のきかない人のことを石部金吉金兜(かなかぶと)と言います。この金仏の金は、これと同じで木仏金仏石仏とて、味も素っ気も、人情味もないのを、冷たいとて金属で作った仏さまにたとえて言いました。「木石」などという言い方もあります。今日で言うと、北極南極冷蔵庫とでも表現したならば若い人にピンとくるかも知れません。 原稿のため不明
かばやき 蒲焼  鰻は奈良時代から食膳を賑わせていたようで、昔はむなぎと呼ばれていました。今日でも。関西ではまむしと言い、蒸して焼くので名付けられたようですが、蒲焼というと鰻が代名詞のようですが、ドジョウ・フナコも含まれます。最初は鰻に限られていたのが、値段が高かったので右へ並えをしたようです。語源は、鰻をさかずに竹串をさして焼いたので、その形が蒲の穂に似ていたのでとか、焼いた色が樺の皮に似ていたからという説もあります。 98・03上
かみせき 上席  付の1日から10日の上旬の寄席興行をいう。11日から20日を中席、21日から30日を下席。従前は映画は1週間(7日)替り、時代の変遷で映画はロードショウ、寄席は10日興行になった。31日ある大の月は、余一会と言って特別企画の興行を行う。 89・12上
かみなりおこし 雷おこし  浅草寺の雷門は、風神・雷神で、仁王さまは参道の中程にある仁王門の中におわします。つまりこの雷門再建のときから「雷おこし」は出来たのです。そののち寺町へ移転をしたり、近いところに同じおこし店を出すものがあったり、それで、もと店の方からこちらは元祖だ、いや、こっちが本家だと争ったとか。売人もいて、半天・足絆・背に黒雲に稲妻、傘も同じで、太鼓の形をした箱におこしを入れて担ってきました。 96・06上
からすみ 唐墨  鯔(ぼら)という魚は、出世魚で成長するにつれて名前が変わります。生まれてを「おぼこ」、少し育つと「るふな」、二才になると「いな」、三才を「すばしり」、四才以上を「ぼら」、十才以上になると「とど」。成長してしまうと「トドのつまり」とういう諺になっています。「そのボラの卵を干したのをカラスミと言って珍重しますが、その細長い小判形が、昔、中国から輸入された唐墨に似ているのでカラスミと名付けられ、薄く切って酒の肴などにチビチビと楽しむのです。 03・02下
がんたん 元旦  自動車にぶつかった音ではありません。元旦は1月1日のことですが、旦は朝のことで、一字で読めば「あした」です。ですから寝坊をして元旦のお昼頃起きて来ては、もう元旦ではないのです。2日や3日に届く年賀状に、元旦と書いてあるのも、本当はおかしいわけで、1月元旦や正月元旦などと書いてあるのも?つまり元旦とは1月1日の朝のことなのを、ご存知ないのです。 95・02上
きせる 煙管  不正乗車のことではありません。先の部分を雁首(がんくび) 04・03中
きびょうし 黄表紙  表紙が萌黄色であったからですが、内容は草双紙や青本と違って、子供向きの絵本の草双紙が、大人の読物として絵画文学に発展したものです。その良さは絵と文章が一体となり、文は絵を助け、絵は文を助けて、文章だけの難解さがなくテレビのように映像文化の時代となったからです。洒落本から、狂歌や川柳にまでその枠をひろげ、作者と画家との提携で、より江戸文化が花咲きました。行き過ぎて筆禍事件を起こしたりしましたが、今日のビデオにもあるようです。 99・02上
きわめつき 極付  骨董品などに鑑定書がついていることです。書画・刀剣・茶道具などに鑑定証明書のついていることで、これを極書(きわめがき)といい、短冊形の小さな札や、奉書などを二つに折った折紙の形式が多く、つまり極め付き・折紙付きと称し定評のある確かなものの意味となりました。極付は歌舞伎や芝居の方でも使われる用語となり「極付幡随院長兵衛」でも「極付国定忠治」とか。 99・11上
ぎんざ・きんざ 銀座・金座  現在、全国には○○銀座なる商店街が五百余はあるとか。これは江戸時代に、今の銀座一丁目から八丁目までは、賑やかな通りでもありましたが、銀貨の鋳造所がここにおかれていたからです。金貨の鋳造所は現日本銀行の辺り日本橋でしたが、その中間の京橋には両替屋が並んでいたので、両替町の名が起きました。銀座座人の不正事件が発覚して、長崎・京都・大阪にもあったが主な機能は江戸にうつされて、いわゆる「銀座八丁」となったのです。 94・06下
きんぴら 金平  細かくきざんだ牛蒡を胡麻油でいため、醤油と砂糖で煮つめたものに七味唐がらしをかけた家庭料理とお考えでしょうが、かたくて歯ごたえがあり、ぴりりっと辛いこのお惣菜になぜ金平の名がついたのか。江戸時代のはじめの頃流行した浄瑠璃の主人公で源頼光の四天王、渡辺の綱・坂田の金時・ト(うら)部の李武・碓井の貞光にそれぞれ武綱・金平・李宗・貞兼という子を創作し、なかでも金平は剛力無双、そのイメージが金平糖にまで及び強い甘さの表現となったとか。 01・08上
きんめいちく 金明竹  ご存知落語の題名ですが、骨董品の中でも貴重品だった竹細工の呼名です。その噺の中で猫を借りに来た言い訳に、傘と間違えて、骨は骨、皮(紙)は皮と・・・いう言いたてがありますが、商いに「古傘貫い」というのがあって骨は又傘屋へ、油紙は肉屋へ売ったそうです。「猫の絵書き」という商売もあり、ねずみを除くたけに家々を歩き廻って、注文があると猫を描いて、もちろん洒落でしょうが、優雅な余裕のある時代でもあったようです。 98・12下
くいあわせ 食い合せ  鰻と梅干。天ぷらと西瓜。田螺と蒟蒻。現代では単なる迷信と否定されて、話題にも出なくなったようですが、江戸時代には、何かと何かを一緒に食べると腹痛を起こしたり、病気の原因になると言われました。又、人間関係でも大家と店子とか、旗本と町奴とか、ぶつかり合うゴタゴタが起きる比喩などによく使われました。昭和初年、勇敢にもこれらの食い合せを試食して中毒の恐れのないのを体験し証明した人がいたとか? 97・05上
くいつき 喰い付き  仲入り(休憩)後、すぐ出る演者を言う。前座のあとにあがるのを二つ目。真打ちの前に出るのが「膝がわり」である。大阪では(浪曲も)これをモタレと言う。 88・11下
くちぐるま 口車 他人を言葉巧みにだますことを口車にのせるといいますが、他人の気持ちをこちらの説得に誘いこむことに用いられるということです。つまり車の迅速な回転と、舌先三寸の巧妙な回転と、似ているところから口と車を合わせて一つの熟語になったもののようです。口車などという、人力車まがいのもののことのようですが、20世紀末の日本はアメリカから憎まれるほど、自動車を過剰生産して、いつかは「朽ち車」でポンコツをつかまされることではないでしょうか? 原稿のため不明
2/20更新
くめん 工面  お面をつくる人。転じて、顔中化粧をぬりたくって素顔の見えない人のことでもありません。整形手術の別称でもなく、ま、例えばそのためにかかった費用をどうするか?という時のやりくり算段を工面と言うのです。どうにか金廻りをつける金策のことで、又は普通には、物事の工夫、才覚のための相談をするといった意味もあります。美容整形の病院へ行って「工面」してくれなどというと「精神科」へ行って下さいと言われます。 03・07上
くもすけ 雲助  江戸時代。タチの悪い駕籠かきや人足をこう呼んで、東海道がこの呼名の始まったところ。ゆすり・たかりを平気でやる人足や駕籠やで、今日は東、明日は西と、浮雲のようにふわりふわりしているから雲助、または所々に網を張って、客をつかまえるところから虫の蜘蛛と書いてくも助。中には、集団で悪事を働き、役人がくると蜘蛛の子を散らすようにバラバラになって逃げたので・・・「雲」か「蜘蛛」か、どちらとも言いがたいのです。 01・11中
けころ 私娼  現代の呼称は、私娼ですが、蹴転ばしの略で、昔、上野山下に巣くっていた売春婦のことです。短い時間で客をこなし、代金も安く、当時二百文(約三千円)江戸時代の最盛期には、百数十軒が点在していたそうです。太平洋戦争後も、青線&おかまの巷でもあり、上野のお山から不忍池を通り、広小路松坂屋前の辺りまで、かなり出没しました。又、不忍池のほとりには出会い茶屋が軒をつらねて男女の客を待ち、昔のラブホテルだったようです。
97・03中
けんどん 蕎麦屋(そばや)  「慳貧」と書いて、意味は、物を惜しみさぼる、又は「倹飩」と書いて倹約する饂飩の略ともいいます。もともと江戸っ子はそば好きで、大阪ではうどんが好まれ、江戸落語では「時そば」「そば清」「よいよいそば」など。上方落語ではもっぱらうどんのネタが多いようです。元祖は、早い!うまい!安い!の立喰いそばが今日も大繁昌で、駅や繁華街の街角にあるスタンドそばも、独身者やサラリーマン、外廻り外交員の利用率は高く、庶民と共にあります。
96・03中
こうざ 高座  芝居は舞台。落語は高座。くだいて言うと、落語を演じる舞台は高座と称す。これは芝居のルーツの歌舞伎は、その昔出雲の阿国という白拍子が、京都の四条河原で台の上で舞ったので舞台。お客は芝の生えた処に座って見たので芝居。噺家のルーツはお公家さまで、お伽話が始まりとて、高座(たかみくら)から出た語。 90・10上
こうしゃくし 講釈師  これは江戸時代の言葉で、明治以後は講談師が正しい呼称です。講釈と言うのは、語句の意味を説明することでつまり寄席戦記や伝記などを語る演芸で、教育レベルの低かった時代、種本を朗読しつつ補足的に説明をしたので講釈と言ったのです。明治から大正にかけて講談師が立川文庫を出版し、これが総ルビ(かなふり)だったので少年がどんどん漢字を覚えたとか。出版の講談社が登場したのは大正時代になってからです。 05・08上

10/23更新
こうり 行李  大相撲の世界では今日でも、通用している旅行用の荷物入れのことです。最近はダンボール箱でた宅急便の時代になってしまったが、行という意味は昔・他国に行く使者つまり外交官を行理といって、理は吏でもあるとて、李はスモモとは何の関係もありません。つまり旅行に持って行く荷物を行李というようになったのです。車輪つきのトランクが出来て大変便利な現代で、柳の枝で編んだ時代語となってしまいました。 原稿のため不明
こけら 朴  山から切り出したままの手を加えていない材木のことで、その材木を薄くそいだ細片をコケラと言います。これで板屋根の上をおおったのが「杮葺(こけらぶき)です。魚の鱗(うろこ)をコケラというのも同じで、魚の上を細片の鱗が重なり合って並んでいるところはコケラブキの屋根と同じに見えます。それが落ちて小屋が完成披露することになりコケラオトシとは建築落成ということになるのです。 03・03上
こしや 輿屋  「お葬式」という映画が当って、今までの常識を破り縁起の良い悪いということを余り気にしなくなったようですが、落語に出てくる葬儀屋のことです。もともとは身分の高い人を乗せる乗り物を作っていましたが、のちに死人用専用になって棺桶をメインに葬儀万端の世話をするようになりました。早い話が早桶屋のことです。かって浅草菊屋橋の近くに、こし屋橋というメッカの傍に橋があったそうです。 95・08上
ごしょう 後生  「後生鰻」では、サゲに赤ん坊を川へほうり込むのはよくないと言うので放送禁止落語の一つになっていますが、現世におけるおこないの善悪が、来世にかならずや報いとなるという仏教思想が人々の心に江戸時代にはしっかりと根づいていました。来世の安楽を願うならば仏心や同情心を大切にしたのです。「後生大事」の日常語も、物をこの上もなく大切に使うこと、保持することをこう言いました。「後生楽」とは、万事を気にかけない楽天的な好人物を指します。 01・03中
ごしんぞ 御新造  現在はどんな女性でも「奥さん」と呼んでいますが、本当は殿さまというのは御殿に住んでるから殿さまで、その屋敷の奥深く住んでいて表へはめったに出て来ないから「奥方さま」であったわけです。アパートの玄関とも台所ともつかないドアの入口でセールスマンとやり合っているのは?つまり町人の一般は「おかみさん」でしょう。将軍さまにお目見得出来ると旗本、それ以下は御家人といい、旦那さまと呼ばれ、細君は御新造といいました。 98・07中
ごふどう 五不動  目白・目黒・目赤・目青・目黄の五色の眼を持つ不動尊を江戸鎮護のために、五ヶ所に配置したその名残りが、今だ地名として呼ばれているのです。山手線の目白や目黒、それに目赤は文京区駒込に、目青は麻布谷町、そして目黄不動さまは台東三ノ輪に祀られています。五不動に共通しているのは、その地点がいずれも江戸の要衝の地にあたる聖域だったということです。名物の餅花は、五色の色をつけたしんこ餅でこれを食べると、悪霊を除けることが出来たとか。 97・01中
こよみ 暦  昔も今も変わらないのが師走になると、いろいろな来年の暦が姿を見せることです。一ヶ月の日数に大の月と小の月があるのは、昔も今も同じです。しかし、暦の作成は江戸幕府の管理のもとにあって、日本橋の板本屋甚四郎などに印刷を許し、独占専売のもので類似品は取り締られました。徳川時代も中頃になると印刷技術の進歩や江戸趣味に走る人々が多くなり、商店などが正月の挨拶がわりに配るようになって、統制された悪影響でいかがわしい暦が出まわるモトとなったようです。  93・12上
こわいろ 声色  昔、寄席では一つの立派な芸として、柳亭春楽・桂玉冶・吉岡貫一などと言う名人がいた。もっぱら歌舞伎役者の声を色々と真似て、芝居のサワリを演じた。テレビ時代になって、歌手やテレビタレントの物真似をする芸人がふえて、声帯模写と言うようになってしまった。 89・11中

か行

落語の言葉 説  明 記載号
さいおうがうま 塞翁が馬  良いあとは悪い。悪いあとは良い・・・人生の幸不幸は最初から分からないというたとえです。昔、中国の塞というところに住んでいた老翁が、飼っていた馬に逃げられ手がっかりしていたところ、素晴らしい良馬を連れて戻って来たのです。ところがその翁の子供が、その馬から落馬をして足の骨を折ったのですが、そのため戦争が始まっても徴兵されず、戦死をせずに済んだという故事から出来たことばです。 06・05上

10/23更新
さかやき
月代  戦国時代、武士は兜をかぶると頭が蒸れるというので、額から頭部にかけての髪の毛を剃ったのが始まりでした。頭が蒸れると、そこに気が逆流するので、これを逆気(さかいき)といったのが語源とか。初めは武士の習慣であった月代が、江戸時代になって、いつのまにか一般庶民にも普及をしていったようです。町人の間でも月代を剃って髪を結うことが定着をして、月代を剃らないのは病人か、無頼の徒か、侍だったら浪人者が月代を伸ばしていたのです。
98・12中
さかりば 盛り場  平成5年3月分から、両国の国技館のすぐ隣に「江戸東京博物館」というのがお目見得しました。江戸時代からの代表的な盛り場である、両国広小路・浅草奥山など将軍さまの城下町で昔から武家町人の人口は百万人をこえて、江戸の雑踏をつくり上げ、その人出をあてこむ見世物小屋や飲食店で、火除地の広小路とてその広場に集中したのです。江戸案内書が、田舎者を江戸見物に連れて歩いた様が、くまなく写実・展示されています。1度ぜひ。 93・07上
さしがね 差金  落語の「大工調べ」で八さんが棟梁と共に大家に啖呵を切る時に、いちいち口真似をするクスグリがありますが、後ろで操っているからとてこれを言います。大工が使う物を計る金尺のことと思われますが、本当は芝居用語から出た言葉なのです。舞台に出る鳥や蝶などを、観客には見えないように、かげであやつる細い針金のことを言います。つまり、かげから人をそそのかして、操ることを悪い意味になぞらえて、、差金として使うのです。 06・06中

10/23更新
さとことば 里言葉  廓(くるわ)で使われた「ざます」とか「ありんす」とか、昔の落語は半数近くが廓噺で、遊里で遊女の用いた特殊な言葉使いがでてきます。吉原では「吉原言葉」とも言いました。田舎出の女が、各地の地方なまりで品がなく、客も親しめなかったので、これを早く脱け出すようにと、考え出されたものです。その遊里に共通のものと、各妓楼特有のものがあったようです。 06・09中

10/23更新
さんした 三下  「三下奴(やっこ)」の略で、ばくち打ちの仲間で最下位の者のことを言います。「三下に見る」と言うと、馬鹿にしている、軽蔑しているという意味です。昔から、身分の低い侍(侍)や若党仲間を卑(いやし)めて言う言葉に「三一奴」(さんぴんやっこ)というのがありますが、三下と言うとそれよりさらに下の者のことで、相手を見下げて呼んだ最低の言葉です。尚、身分の低い侍をいやしめて「さんぴん侍」と言ったのは、最低の給与で一年に三両と一人扶持(ぶち)からのもの。 06・06下

10/23更新
さんぜんせかい 三千世界  落語の「明烏」のサゲに使われています。これは広い世界、又は世間ということで、仏教用語から来たものです。須弥山(しゅみせん)を中心とした一つの世界を、千個合わせたものを小千世界。これを千個合わせたものを中千世界。更にこれを千個合わせたを大千世界とします。仏が教化する範囲で、小・中・大と千が三つ重なるので、三千大世界というのです。これをつめて三千世界とて、世間という意味を現しました。 06・10上

10/23更新
さんま 秋刀魚  日本で作られた全くの当て字です。秋の季節になると沢山とれて美味しい刀のように長い魚だからという意味のようです。明治頃までは、この字が固定せず、三馬と書かれていました。日本語としての成り立ちは、サは狭い。その平たい体形を表わすのでンは接続詞で、マは塊(かたま)り、又は群れをなす魚の意味もあります。未だに、地方によりサイラという呼称も使われて通用しているようです。 06・06上

10/23更新
さんぽう 三方  四角い台なのですが、台の脚の前と両側の三箇所だけに穴があいているので三方と名付けたようです。テレビの時代劇に食事をする時によく出てくる小道具で、今では神社か結婚式場でしか見られなくなりました。お正月の床の間に飾る鏡餅は三方にのせてあります。昔は食事用に使われて、儀式的な場に使う三方は、「本膳」と言う落語にでてきますが、正月などの節目のときは、気分が改まって特別な日を過ごしているという実感がわいたようです。 04・04上
さんびゃくだいげん 三百代言  先祖代々三百年にもわたって伝えられて来た言葉のようですが、本当は報酬三百文の“もぐり代言”がいた裁判の時のいいかげんな弁護士のことで、あることを言いくるめて詭弁をもてあそぶ人のことです。人がいないときに、代わりに返事をすること、「代返」を三百回くりかえすことでもありません。「代言」とは口下手な本人に代わって言い訳をしてもらうことなのです。 03・07中
しちのつくことば ○七福神  大黒・恵比寿・毘沙門・弁財天・福禄寿・寿老人・布袋和尚。  ○七つ道具(弁慶)のこぎり・槌・鎌・まさかり・熊手・鉄棒・なぎなた。  ○七草(春)せり・なずな・こぎょう・はこべ・ほとけのざ・すずな・すずひろ。  ○七草(秋)はぎ・おばな・くず・なでしこ・おみなえし・ふじばかま・ききょう。  ○七色(虹)赤・橙・黄・緑・青・藍・紫。(唐辛子)胡椒・胡麻・陳皮・山椒・けし・菜種・麻の実
02・07中
しちふくじん 七福神  七つの災いを除き、七つの幸を与える、人に七つの道と徳を備えさせる福の神で、各社寺に祀られ七つの福神になったのは江戸時代で、とくに正月の七福神詣でがさかんになったのは中頃です。天海僧正が徳川家康に、七難を除き七福を与えることを説き、家康が狩野画家に宝船に乗せた七福神を描かせたことにはじまるとか。宝船を「おたから」と言い、お宝売りが江戸の町を売り歩いた背景が、落語の「厄払い」です。 00・06上
しちや 質屋  「借りた羽織を七に置くよ」と書いてあったので怒ると、本当は棚で、字を七夕の七と間違えたという小咄がありますが、質ものをとって金を貸すことを営業している店のことです。質屋登録者には焼印の将棋の駒型の看板を与えられ「入ると金になる」(将棋の敵陣に入ると裏返って金になる)と洒落ました。現行の質屋の利息は、月に九%(年率百%)以下ですが、店によって様々なれど、年利二十%とかなり低いものでした。 96・07上
じっとく 十徳  封建時代では身分によって服装が決められていたようです。十徳とは「立てば衣のごとく」「座れば羽織のごとく」で、ごとくごとくで十徳とは、落語の語呂ですが、昔は儒者・医師・絵・師・俳諧師などが着た服装で、この人たちの共通するところは、士農工商の四大身分に外れていることでした。もとは世をかくれた僧が用いたもので、腰から下に襞(ひだ)をつけ、袴を略した衣服です。これを直綴(じきとつ)と称した訛(なまり)の当て字かも。 02・10下
じっぱひとからげ 十把一からげ  どれもこれも、どうも価値のないものとして、一まとめにして扱うことを言ったものです。十把は十のたばで、把はまとめたものを言いました。つまり、価値の余りないものを一つにしばって、くくるというのが始まりのようです。江戸時代(落語の世界でも)「じっぱひとからげ」と言ったが、昨今では「じゅっぱひとからげ」とも。十は「じゅう」だからと思われますが、本来の発音は「じっぱひとからげ」が正しいのです。 05・11上

10/23更新
じばやし 地囃子  噺家が出てくる時に演奏するのは出囃子。曲芸や、色物のBGMの伴奏を言う。賑やかものを選び、雰囲気を盛り上げる三味線音楽。良く使われるのが「米洗い」「竹す」など。 89・02中
しみったれ けつなこと、みすぼらしいことを言います。上方では「しみたれ」と発音しましたが、これを促音化して、つまりラップやコップのようにつめて、江戸っ子は口にしたのです。もともとは、塩垂るとて、泣くことを言ったのですが、上方語で、けちけちする意味の動詞に「染(しみ)垂れる」というのがあって、これを名詞(単語をその形やはたらきによって分類したもの)化して「しみたれ」と言ったのが始まりで、江戸語となりました。 06・07上

10/23更新
しゃっかんほう 尺貫法  落語の世界では、もっぱら度量衡(計量単位)はこれです。昭和34年にメートル法に切り替えられて一時消えたのですが、永六輔先生他の努力で再び復活しました。この時代の単位は、尺が前腕の長さ、貫が銭貨千枚の重さ・・・と、日常生活に基づく秤が基本で、メジャーなどない時代には便利でしたが、所詮は島国日本の中でしか通用しないものだった訳です。根強く使われているのは秤で、これは不動産屋のバブル景気の遺物でしょう。 96・10下
じゃばら 蛇腹  「夏の医者」という落語がありますが、怖くてさわれないものではなく、シマシマ模様でもなく、危ないことを考えている意味でもありません。デジタルカメラの時代になった今日、理解しにくい昔の写真機のお腹のことなのです。カメラとレンズと本体をつないで、蛇のお腹のように伸びたり縮んだりするもののことで、アコーディオンという楽器を見るとすぐにわかります。どんな大きなものでも伸縮自在に飲み込んでしまうカメラや蛇のことです。 03・06下
しゃり 舎利  お釈迦さまが死んだ後、その遺骨が世界各国の寺院に分骨して収められました。その数の多さからして本当の遺骨は?と考えられますが、科学的に分析するでしょうが未だ解明されておりません。梵語(サンスクリット)の音訳で遺骨のことですが、一般には火葬にした骨を舎利といい、また、その遺灰と米粒との類似性を見て、米の粒を舎利と言い出したらしいのです。戦後、食料難から貴重品となり銀舎利と言う言葉が流行りました。 原稿のため不明
じゃんけん ジャン拳  グー・チョキ・パー。石と鋏と紙。片手の指を開いたり、二本だけのばしたり、握ったりして、大人から小人まで、ルールが簡単で誰にでも出来るので昔から今日まで用いられています。これはもともと拳の一種で、蛇・蛙・なめくじが虫拳。狐拳は、床屋に鉄砲に狐。江戸時代に藤八という薬の行商人がこれを足で広めたので、狐拳のことは藤八拳とて花柳界でも流行ったのです。三すくみの因がジャン拳の由来なのでしょうか。 92・02下
しゅうじつ 終日  千秋楽の別称とか、カレンダーにある月の終わりの日とか、午前0時直前のことではありません。「ひねもす」のことで、朝から晩まで、つまり一日中ということです。その間、ずーつと何かひとつのことをしつづけることを言います。有名な俳句に「春の海ひねもすのたりのたりかな」というのがありますが、これはゆったりとした波が一日中、寄せたり返したりしている風景です。来る日も来る日も終日、稽古に専念して一流の落語家になるのです。 03・08下
しゅちにくりん 酒池肉林  裸の女性を何人もはべらせて、酒盛りをと連想しますが、これは間違いです。「史記」と言う中国の書物の中に「酒をもって池をなし、肉をかけて林となす」とて、殷の紂王(いんのちゅうおう)の宴会の模様を描いた部分の言葉で、この場合は食べる肉のことなのです。ただ酔うほどに乱れてこのおすけべな紂王が何組もの男女を裸にさせてからみ合いを演じさせ、これを見ながら酒を飲んだということから誤解を生んだのかも知れません。 98・11中
しゅんが 春画  最近の週刊誌のグラビアは、ほとんどがヘアー写真でこのページがないと売行きが悪いとか。カメラのなかった江戸時代は、浮世絵と称して、当時は笑い絵とか枕絵とも呼ばれ、趣向で面白く見せようとするものだったようです。描写として誇張とか美化とか優先し、外国女性が春画を見て、日本人の大きさにビックリしたとか?一般の錦絵より高価に売れるから稿料も高く、浮世絵師の多くがこの分野で傑作をものし今や外国でもマニアのいるエロティク・アートになったのかも知れません。 97・04上
しょうぐん 将軍  松平健の「暴れん坊将軍」でご存知の将軍というのは、「征夷大将軍」を省略したものです。もとは東国地方の夷を征伐する軍団の大将のことでしたが、後には武家政治の親玉のことを言うようになりました。将軍は、天皇家になりかわって、全国を治める権力者であったわけです。一般では「公坊さま」幕臣は「上さま」と言いました。江戸幕府とは、本来は将軍の住居を指す言葉でした。 96・02上
しょうべん 小便  落語の「道具屋」の中で、買わないで帰る客を「小便した」と言いますが、これは商人の間でよく使われることばで、「買わず(カワズ)」と「帰る(カエル)」にあります。カエルは逃げる時に必ずオシッコをひっかけていく。儲けそこなた商人が腹立ちまぎれに考えたダジャレです。因みに「小便たれ」「小便くさい」とは、未熟とか幼く拙いという意味で、江戸時代にわざと寝小便をして、ヒマをだされ支度金をせしめた小便たれ妾(めかけ)、芸の未熟な安芸者を言いました。 99・12上
しらかわよふね 白川夜船  熟睡して何もわからないことを言います。語源は、まだ見物に行ったこともない京都のことを自慢げに、見て来たように物語る男に「白川はどうだった」と聞くと、川の名と思って「そうさなァ・・・あの時は夜船で通ったから解らなかった」と答えて誤魔化したことから出た言葉です。白川は京都の東北部の地名。良く答えられないと寝たふりをする人がいますが、しらかわ言ってきかせやしょう・・・か。 05・12上

10/23更新
しらなみ 白波  歌舞伎狂言に「白波五人男」というのがあります。語源は中国で、三国志でお馴染みの黄巾賊(こうきんぞく)の残党が白波谷にこもって盗賊となり人民をおびやかしたので、白波賊と呼びました。これが日本に伝来した白波となり「シラナミ」と訓じて、つまり芝居・講談で盗賊を主人公とするものにこれをアタマにつけました。泥棒白円と異名をとった講談の松林白円、歌舞伎では市川小国次が幕末の世相に、強盗・殺人・ゆすり・無頼漢などを演じて人気のあったところから白波役者とも言われました。 02・04上
しらはのや 白羽の矢  最近は、多くの人の中から選ばれてさだめられたことのように解釈されているようですが、江戸時代には人身御供(ごくう)を求める神さまが、その望む娘の家の屋根にこっそり白羽の矢を立てたという俗説から出た語で、これを地方の神宮たちが真似て、宮廷の采女(うねめ)の地方版を考え、農村の美人の娘を白羽の矢を使って、召し出させたことは、神をダシにして悪いことをしたご魔化しでありました。 05・03中

10/23更新
じんかいしょり 塵芥処理  現在でもゴミ処理処理問題は頭痛の種ですが、江戸時代もまた、大半は堀へ捨てたり、川や下水へ流したり、空き地へ山と積んだり、散々の状態でしたが、江戸の発展と共にこの量も増大し、幕府も東京都庁と同じように対応策に迫られました。ゴミを川へ捨てることは禁止し、隅田川河口にできた永代島という砂州にこれを捨てることを命じました。しかしこれだけでは不十分となり、大名屋敷などでは専門の業者と契約を結び、新田の開発に埋立てに当てることにしました。 99・04上
じんがさ 陣笠  昔、戦争の時に頭を守るために被ったのはカブト。しかしこれは武将専用のもので、身分の低い足軽や雑兵のような下級武士は陣笠でした。落語の「やかん」や「源平」の噺に出て参りますが、薄い鉄や革で出来ていたようで、頭の保護には役立ちそうもありません。日焼け防止か?平和な世の中になると武士が外出する時にかぶったようです。近頃、陣笠は国会にも顔を見せることがあって、これは役職のない平の議員さんを、足軽になぞらえたのでしょうか。 02・08上
じんろく 甚六  総領(そうりょう)の甚六と続けてよく使われますが、のろまでお人好しの代名詞で、昔は長男が必ず親の財産を受けつだので、幼い頃から甘やかされて、我侭に育てられたので、ややばかにされて言われました。つまり甚六は順緑(じゅんろく)の語源で、跡目相続者として順が定まっているため、緑を受ける第一人者としての意味なのです。人の名前で無く、いつの間にか長男の代名詞となって、甘ちゃんのことを言うようになりました。 06・07中

10/23更新
すきやき 鋤焼 古き鍬(くわ)のよく摩(す)れてうすくなった上に切り肉をのせて焼くことで、鋤にかざらす鉄板の薄いのを用いることを言います。明治南北後の日本人が、西洋文化にまねて、牛の肉を口にしたことに始まりました。バーベキュー、朝鮮焼肉といったところです。深い鍋に始めから割り下を煮立たせて味付けをし、そこへ肉や野菜を入れて煮込む東京風の牛鍋とは、全く違うもので、使い古したスベスベになった鋤を使ったのは、金気を嫌って、肉の臭いを消す食べ方だったのでしょう。 原稿のため不明
2/20更新
すけべ 助平  すけへいと読むと、横目家とて落語家の名前になってしまいますが、Hのすけべは、ローマ字でHENTAIの頭文字からきています。最近はセクハラなどというのが流行になっていますが、助平は、助兵衛のことで「好兵衛」という好色人種を擬人化したことばなのです。「変態」と「好色」では、意味がかなりの違いがありますが、女性が乗らなかったら、、満員電車はあんなにギュウギュウには詰らないそうです。 94・10上
すし 鮨  寿司は当て字で、その歴史は古く、古代中国で魚貝などを飯と漬け込み、発酵させ魚貝だけを食べる保存食としてはじまり、東南アジア各地に広まったのだそうです。江戸初期には押しずしでしたが、中期から握りずしが急発展しました。握りは両国の初代花屋与兵衛の創始といいますが、深川の松ずしもそののれんが続いており、握り寿司は江戸で盛んになり、各町内に2・3軒はすし屋があったとか。そのネタは江戸前の新鮮な魚貝類が江戸っ子の口に合って今日に至りました。 02・07上
すみだがわ 隅田川  「宮戸川」「船徳」「佃祭」「たがや」の落語でもおなじみ四季を通じての風光の名所でもあるとともに、この川は江戸名物の食べ物を産出するところでもありました、魚では鯉・鮒・白魚・鰻・鯰など、そして蜆。その味噌汁を飲めば黄疸が治るといわれた蜆は、深川の業平橋の付近でといれたのが最上とか。浅草海苔は、かるくて持ち運びに便利とて江戸土産に最適で、全くとれなくなった今日でも名高い名称です。白魚は醤油に泳がせて、色が変わってから口にしたとか。 97・07上
ぜげん 女衒  人買いと呼ばれ、全国を廻って、貧しい農家の若い娘で、目・鼻立ち・唇・髪の生え際の良いものを見つけると、金銭で親をくどいて、自分の養女とか、親戚の娘として遊女屋に奉公させた商売です。これらは人間的な感情などは全くなかったが、女衒にかかるのはまだましで、誘拐され、レイプされて売りとばされる少女も多くいたそうです。「女郎に売られる」と、生まれては苦界、死しては浄閑寺とて、粗食・不治の性病などで、あわれな一生を若くして閉じたそうです。 97・10上
せんとう 銭湯  大勢の人を運ぶ乗合自動車や、大勢の人を入浴させる風呂、これがどんどん個人用にかわって行く、経済成長の時代となれば死語になりつつあります。大衆浴場が不朽したのは江戸時代で、入浴料(湯銭)をとったので銭湯と呼んだのです。銭はお金の名称とか単位でなく、ぜに(お金)という意味で、風呂屋のことを名付けました。一人ひとりが、入浴をする家庭用のバスとは、資源の浪費が百倍、千倍になってきた贅沢な現実です。 原稿のため不明
そうりょう 総領  何どし生まれ?血液型は?と聞かれるのと同じ、あなたは長男?長女?どれも余り答えたくないものです。昔は、親の財産や親の面倒は長男や長女が受けつぐように育てられたので、総領の甚六という呼名が与えられました。赤ん坊の時から、何事も優先順位で、よくいえばゆったりとおおまかでこせつかないように育てられたので、悪く言えば馬鹿に見えたようです。昨今ではこんな評価が当たるか、どうか? 05・07上

10/23更新
た行
落語の言葉 説  明 記載号
だいこん 大根  煮ても生でも食える大根は食あたりを起こさない「当らないから大根」とういのは「大当たり」が江戸時代の歌舞伎役者に対する最大のほめ言葉であったことから、大根役者という語が出来たそうです。別に木偶(デコ)を江戸弁で発音するデーコ(大根)になるので、舞台に出たのはいいが、、棒立ちになってちっとも動けない。それを見たお客が「木の人形(デコ)」だと言ったからとも言われています。 02・02上
だいだんえん 大団円  テレビ番組「笑点」で使う大きな座布団のことではありません。といって大枚だから、一万円札の別名かと思うと大違いです。芝居とか映画とかのエンドマークに使われたのは浅草六区華やかなりし頃。すべてのストーリーが円くおさまる場面のことで「団円」とは結末を意味する言葉で、それに「大」がつくのですから、大がかりなフィナーレです。忘れがたい感動のラストシーンが展開して「エー、お帰りはこちら!」 03・08上
だいだんえん 大団円  ハッピーエンドのことで、これは中国のお芝居から来た言葉で、いろいろなストーリーがあったが、総て丸く収まって終わったという意味なのです。昔は小説でも必ず文章の末尾に“終わり”と書いてありました。講談などでは大団円と締めくくったものです。映画だけは現在でも大きく「終」マークが必ず出てきますが、現在のように何もないと、未完なのか、続きがあるのか考えさせられる終末のときがあります。 原稿のため不明
だいはちくるま 大八車  昔は荷物を運ぶのは,荷車で馬がこれをひき馬車と言い、人は二輪車で大八車と言いました。坂道や大きなものは二、三人で押したり引いたりしたのです。大八車の語源は八人に代わる仕事の量がが賄えるというので付けられたと言いますが、そうすると大八車は代八車の当て字ではないかと思われます。時代劇に必ず出てくる運搬車はこの大八車で、また、馬車をひく馬の糞(ふん)を朝顔の肥料に、よく子供の頃拾い集めに行ったものです。 原稿のため不明
たかびしゃ 高飛車  将棋用語から入った言葉で、高い位置から敵陣に(相手に)にらみきかすことを言います。つまり対人関係で相手に対して、威圧をかけること、頭ごなしに、いばって、押しつけがましい態度をとることです。職場や取引きで地位の高い人が、平の社員に見うけられるポーズです。しかし飛車ににらまれたときも、恐れることはありません。飛車筋はとめやすいと言って、歩損ぐらいで難をさけ、保護逆転を計るのは、近頃アマでもプロになる棋士もある時代です。 06・04上

10/23更新
だっき 姐己  講談に「姐己のお百」というネタがありますが、本ものは中国の紂王(ちゅうおう)の妻の名で、酒池肉林の乱痴気パーティで名高い女性のことです。途方もない悪女で、罪人を油と火の中を歩かせて楽しんだと言われています。何しろ毒婦の代名詞のようなもので、お家騒動の夫の陰謀に加わり、夫が処刑された後も生きのびて、その美貌と色香でさまざまな悪事を重ねました。笠森おせん・高橋おでんなど、然しいずれもその直接の責任は男の側にあるのかも知れません。 05・06上

10/24更新
たび 足袋  足にはく袋状のもので語源としては感じがでていますが、中国の単皮(たんぴ)又は沓皮(とうひ)から出ているようです。中国では皮で作ったからで、その形が日本に渡来して、江戸時代になって布製として日常に使用するようになって、今日の和装として日本人だけが用いるようになりました。日本へは古代に伝わっていて、襪(べつ)(たび)の字を当てられましたが、その時分には筒が長く、ひもで結んでいたようです。 05・01下

10/24更新
たぼ 髱  「酌(しゃく)はたぼに限る」とは、お酒のお酌は女性でなければ、などと言う時に使われます。もとは、、日本髪で両脇に出たのを鬢(びん)、後方の首に張出た部分のことを髱と言いますが、女性とか婦人とかの意味に用いられ、つまり酒のお酌は色っぽくとて、女性に限ると昔から言われつづけて来たのです。大名行列の先頭を行く、徒士侍(かちさむらい)も土下座をしている女性の首すじを見ると、その先触れもやさしくなったのも髱の威力かも?
06・08上

10/24更新
ぢぐち 地口  語呂・駄洒落・地口・最近はボキャブラなどと、言われていますが、世間一般に普通使われている言葉に音の似せた別語を寄せならべて発音し、面白味を出す言葉遊びを言います。これは江戸で発達をしました。例えば「地口」を動詞化して「じくる」とも。余りやり過ぎると、しくじるになるかも?地口とは土地の口合いの意味で、この土地とは江戸をさしています。「向うの原っぱに囲いができたねぇ」「塀(へい)」。 05・10上

0/24更新
ちゃんぽん チャンポン 長崎料理の肉や野菜を混ぜいためたものをかけた中華風のそばのことですが、これと同じように、いろいろな野菜や蒲鉾などを上のせしたうどんを、大阪ではシッポク、東京ではオカメと言います。
もともとシッポクとは「卓袱」とて、食卓を覆うテーブルクロスの漢語だったのです。それが結果的には、和洋華いろいろと入り混じったことからで、チャンポンと、鉦(かね)を叩いてチャン、鼓(つづみ)を打ってポンでは、料理とはなんの関係もないようです。
原稿のため不明
2/20更新
ちゅうしんぐら 忠臣蔵  講談の世界では「冬は義士、夏はお化けで飯を食い」と古川柳にあるように、また古典落語にはこれをパロディに沢山の芝居噺が受継がれています。歌舞伎の方では、春夏秋冬の季節を背景に、義理人情のムードで、涙あり、笑いあり、和事、荒事、舞踊、音曲がはいり不朽の名作として、愛好されてきました。松の廊下の刃傷事件から、吉良邸討入りまで「目しるしは殿が額につけて置き」「それまでの只の寺なり泉岳寺」 02・05上
ちょうちんもち 提灯持ち  人の手先として、その人に有利になるように働くことを言います。昔、懐中電燈や自動車のない時代に、夜の外出や、葬儀などに提灯を持って人々の前に立ち、足もとを照らして行く人のことを言ったものですが、現在は、度を越して人をほめあげ、あだてる者のことになったようです。よいしょ上手、などと言うのもこれに入るようですが、自分にプラスになる人のために片棒をかつぐこと、気分を良くしてあげることも加わったようです。 06・08上

0/24更新
ちらし 散  リーフレット・・・などとも言いますが、不特定多数の人々の撒布することから名付けられたようで、鮨とは何の関係もありません。つまり客を呼ぶための宣伝の、昔からある印刷物の一つの方法・手段です。朝刊にドッサリとはさみ込まれてくるヤツです。映画や寄席でも、又、チンドン屋や披露目屋などが随分まいたもので、最近でも駅や街角で、とくに選挙の時などはうるさいくらいに手渡されるようです。 92・08上
つきだし 突出し 相撲の四十八手の内の突出しではありません。良く居酒屋などで、オーダーした料理でなく、サービスで出す塩辛とか塩豆とか煮物などをお酒やビールと一緒にだされることがあります。東京ではこれをツキダシ。関西ではオツマミと言います。
これはある鮨屋で、鉄火丼を注文したところ、一品、ワサビ付きのトコロテンが出て来た。ア!このトコロテンが、ツキダシの語源なのだ・・・と。昔、酒を飲む前のオードブルが辛口の客に出された店主の心遣いだったのです。
原稿のため不明
2/20更新
つけやきば 付け焼刃  有名な「子ほめ」や「牛ほめ」と言う落語の与太郎さんのしくじりの原因です。一時の間に合わせにおぼえた知識や技術のことで、本当の力にはなりませんから、役に立つどころか失敗をしてしまいます。この言葉の出所は、刀鍛冶(かたなかじ)の用語からきていて、切れのよくない鈍刀に鋼(はがね)の焼き刃をつけたしたもののことです。すぐに切れなくなってしまうので、にわか仕込みのことを言うようになりました。 03・09上
つつもたせ 美人局  中国が元と言った頃、娼妓を偽って妾(めかけ)として、男を誘惑する犯罪を「美人局」と称したことから出た言葉です。これは日本では博打うちが「筒持たせ」とて、サイコロをころがすことから出た表現なのです。女が夫としめし合わせ上で、他の男と通じ、夫がそれに言いがかりをつけて金銭などをゆすることに当てはめられました。最初は上方語から始まったようですが、白波五人男の弁天小僧のせりふで一躍有名になりました。 06・09上

0/24更新
であいぢゃや 出合い茶屋  待合いは、芸者が主役ですが、自由恋愛の男女の忍び場所を、現在のラブ・ホテルとして存在したもののようです。「連れ込み宿」「温泉マーク」などと同じで、上野不忍池辺りが風景もよく、情緒もたつぷりだったので、大変繁昌をしました。現在のようにフリーセックスの時代は、夫や妻が浮気しても法にふれませんが、姦通罪などというものがあった昔は、「出合い茶屋あぶない首が二つ来る」などという川柳がある位です。 96・04上
てきや 香具師  縁日やお祭りなど人出の多いところで、見物や、ことば巧みに粗悪な物を売ったりする人を「やし」「てきや」などと言います。香具師は「野士」「弥四」「野師」とも書き、これは昔、野武士が金もうけのために薬を売ったとか、その薬を行商したのが弥四郎という名だったとか。テキ屋とは、いかがわしい品を売るので、ねらったマトに当って客をあざむけば利益が得られるというので「的屋」とか・・・どちらも口のうまさが商売です。 00・04上
てっかまき 鉄火巻  昔、鉄火場で食べたものだからというのが通説になっているようですが、本来は、ぶつ切りにしたマクロを、ワサビを利かせてのりで巻いた寿司のことで「まぐろ巻」というのが、かんぴょうの「のり巻」、きゅうりの「かっぱ巻」と共に、巻き物の中ではもっともポピュラーなものの一つです。「鉄火」とは、真っ赤に焼いた鉄のことで、見た目からと、その鉄火もいとわぬ強気の意味から、ばくち打ちなどのやくざなやからを指すようになりました。 00・03中
てらこや 寺子屋  落語「鼻欲しい」の主人公である浪人者の登場するのがこの舞台です。起源は、学問・文化・教育が寺院でおこなわれたことからで、もっとも普及したのは江戸時代中期以降と言われています。俗に、読み・書き・そろばんなどが中心で、諸法度(はっと)御触書(ふれがき)など、その頃の生活に必要な指導が学習過程だったようです。「ものを書く」「ものを読む」ことが基本で、墨だらけになった習字なども、よく時代物の映画の一場面に出て参ります。 05・04上

0/24更新
てんぷら 天麩羅  江戸のあちこちにいつごろから始まったのか?天明時代、大阪から芸者と駆落ちをして来た利助という男が「大阪には魚を油で揚げた食べ物があるのに・・・これを屋台で辻売りをしてみたいのですが、名をつけて下さい」と、戯作者の山本京伝に相談しました。当時、出奔した浪人を「天竺浪人」と称したが、これは「逐電浪人」を引っ繰り返したものだからと、利助が天竺浪人でふらりと江戸へやって来て売るものだから「天ぷら」がいいだろうと、天麩羅の字を当てたというのが語源です。 04・07上
でんぽうはだ 伝法肌  昔、浅草寺の本坊である伝法院の下僕たちが、寺の勢力をたのんで境内の見世物小屋、飲食店へ無銭で出入りし、とがめられるとことさら乱暴な振舞いをしました。このことから芝居、見世物小屋、茶屋など人の集まるところへ無銭で押入ることを「伝法」と言いました。つまり伝法肌というのは、ともすれば暴力をふるいかねない嫌われ者のことを言います。鉄火というのは、江戸っ子の張りの強い言動をいい、意地を張ることの強いさまを表しました。 04・10上
てんやもの 店屋物  食べ物で、家庭で料理する以外の、外食や出前の食物を言います。ドライブ・イン時代の今日、家族そろって車で食事をする時代と違って、落語の中に出てくるは行商・屋台・縄のれん、又は食堂・居酒屋・小料理